お正月が近づくと、テレビドラマや舞台で繰り返し描かれる「忠臣蔵」。
赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が江戸城内で吉良上野介に斬りかかったことをきっかけに、大石内蔵助をはじめとする赤穂浪士四十七士が、主君の無念を晴らすため、命を懸けて吉良上野介を討ち取る物語として知られています。
しかし、物語の舞台とはまったく異なる場所——
茨城県桜川市・真壁が、この物語に深く関わっていることをご存じでしょうか?
実は赤穂藩主・浅野家のルーツのひとつが真壁にあり、さらに赤穂浪士の中にも、真壁とゆかりのある人物が複数存在するのです。
本記事では、忠臣蔵と真壁の知られざる関係について、歴史的背景をもとに解説していきます。
忠臣蔵は、真壁に血筋がある人の物語

結論から話しますと、赤穂藩主・浅野内匠頭長矩は、真壁藩主・浅野長政を祖とする浅野家の直系の子孫です。
また、赤穂浪士四十七士のうち勝田新左衛門・潮田又之丞など複数名は、真壁藩時代に浅野家に召し抱えられた家臣の子孫です。
そして、映画『最後の忠臣蔵』で描かれている寺坂吉右衛門が、公的な史料・学術論文などで「真壁出身」と断言されている記録は、残されていませんが、かなり信頼性の高い説として地域の伝承・地元の紹介記事などで語られていることがあります。
真壁のお殿様は、真壁城にいた真壁氏の一族ではないの?
真壁の歴史をさかのぼると、この土地を本格的に治め始めたのは、1172年ごろ(承安2年)に真壁郡に入ってきた真壁長幹(まかべ たけもと)とその一族だと考えられています。
小林かつのり真壁の土地は、1万年前くらいの居住の痕跡もあることながら、真壁氏が治める前から集落はあったようです



真壁の町の由来は、この真壁氏の性から始まり、地名や城の名前になっていったんだね
真壁城の築城も、承安2年(1172年)ごろに真壁長幹が始めたと伝えられています。



そこから、どうして浅野氏や忠臣蔵に関わってくるのかな?
時代が動いたのは、関ケ原の戦い
真壁氏はこの地を本拠にして、代々にわたって地域を治めていきました。
戦国時代に入るころ、現在の茨城県の中央から北部は「常陸(ひたち)の国」と呼ばれ、
この広い地域をまとめていたのが 佐竹家(佐竹義重・義宣など) でした。
真壁氏は、やがてこの佐竹氏と深い結びつきを持つようになり、同盟関係ののち、実質的には佐竹氏の家臣として行動するようになります。
1600年の関ヶ原の戦いでは、佐竹氏は最後まで態度を明確にせず、江戸幕府(徳川家)からは「豊臣方寄り」と判断されました。
その処分として、1602年(慶長7年)に常陸から出羽国秋田へ国替えとなります。
これに従い、真壁氏も常陸を離れ、秋田県角館(かくのだて) に移りました。



私は子供のころから、どうして真壁に「真壁」の性の人がいないのだろう?と思っていました
今でも、秋田県角館には真壁の苗字の方がいるみたいです
関ケ原の戦いのあと、浅野長政(あさの ながまさ)が真壁藩の藩主に
関ケ原の戦いのあと、真壁一帯は徳川政権の支配地となりました。
1606年(慶長11年)、徳川家康は関ヶ原で東軍に味方した功績を持ち、さらに豊臣政権では五奉行として重い役目を担っていた浅野長政(あさの ながまさ) に、真壁の 5万石 を“隠居領”として与えました。
これが 真壁藩の始まり とされています。


浅野長政(あさの ながまさ)の像



五奉行ってなんですか?



豊臣政権で、政治の実務・行政・財政をまとめる役職で、いわゆる最高幹部。
浅野長政は行政の責任者でした。
現在の日本政府でいうと、官邸で政策をまとめる官房長官をやりながら、財務省と総務省を兼ねた大臣という感じです
ちなみに、石田三成も五奉行です
そして、現在の真壁の町並みへ
真壁の町は、真壁氏が治めていた時代の中世城下町を土台に発展してきました。
町のあちこちに残る「鍵の手(かぎのて)」や「枡形(ますがた)」と呼ばれる曲がり道は、その名残です。


江戸時代に入ると、浅野長政・長重の時代に、生活や商いを重視した 近世的な町割り が加えられ、
真壁は城下町の雰囲気と在郷町としてのにぎわいが共存する、独特の町並みへと変わっていきました。
長政の三男 浅野長重(あさの ながしげ) は、父の死後に真壁5万石を継いで真壁藩主となりました。
その後、元和8年(1622年)には笠間藩へ加増転封されます。
しかし、父長政の墓が真壁にあったため、長重本人は笠間より真壁に住むことが多かったと伝わる。
この長重が、真壁支配の拠点として真壁町内に陣屋(真壁陣屋)を築いたと伝えられており、その跡地が現在の真壁伝承館歴史資料館一帯(大和町)と考えられています。


真壁藩から、忠臣蔵の赤穂藩へ。 赤穂藩藩主・浅野内匠頭長矩
浅野長政の三男・浅野長重は、父のあとを継いで真壁藩主となりましたが、元和8年(1622年) に幕府の命で笠間藩へ転封されました。
この転封により、真壁藩は廃藩となり、笠間藩の領地構成の一部として扱われるようになりました。
また、浅野長重本人は笠間藩の初代藩主として入封しました。
一方、浅野家が笠間へ移ったあと、真壁は衰退したわけではありませんでした。
むしろ、浅野家が整えた町割りを土台に、江戸時代を通じて「在郷町(ざいごうまち)」として大きく発展 していきます。
交通の要所として商人が集まり、町人文化や職人文化が根づき、「城主がいないのに栄える町」として、独自の姿を形づくっていきました。
その面影は今も真壁の町並みにしっかり残っています。




浅野長重が笠間藩の初代藩主となったあと、その子である 浅野長直(ながなお) が家督を継ぎました。
長直の代になると、浅野家は幕府の命により、播磨国赤穂(現在の兵庫県赤穂市)へ転封 となります。
そして、長直の子が忠臣蔵で知られる 赤穂藩藩主・浅野内匠頭長矩(あさの たくみのかみ ながのり) です。
忠臣蔵という全国区のドラマの中に、実は真壁の歴史が静かに息づいている——
そう思うと、物語の見え方がまた変わってきますね。
赤穂浪士・四十七士 には、真壁浅野家と深い関係を持つ人物


忠臣蔵で知られる 赤穂浪士四十七士 の中には、
浅野家がまだ 真壁(桜川市)を治めていた時代 に、その家臣団とつながりを持つ家の出身者が何名かいます。
赤穂浪士・四十七士の2人が、真壁にルーツを持つ人物
その代表的な人物が、
- 勝田新左衛門(かつた しんざえもん)
- 潮田又之丞(うしおだ またのじょう)
の2名です。
浅野家は真壁 → 笠間 → 赤穂と移動していく中で、家臣団も多くが主君に従いました。
その子孫が勝田新左衛門や潮田又之丞であり、真壁と忠臣蔵の深いつながりを示す象徴的な存在となっています。
映画『最後の忠臣蔵』の寺坂吉右衛門と「真壁」説
赤穂浪士の中で唯一生き残り、事件後の顛末を語ったとされる 寺坂吉右衛門(てらさか きちえもん)。
この人物には、映画や小説でも描かれるほど多くの謎があり、特に「出身地」については諸説あります。
実は、真壁地域では 寺坂吉右衛門=真壁ゆかりの人物 だったと語り継がれています。
真壁の見どころ


忠臣蔵と浅野家の歴史を知ったあとに歩く真壁の町は、きっとこれまでとは少し違って見えてくるはずです。
ここでは、ぜひ訪れてほしい真壁の見どころを紹介します。
真壁城跡
真壁城跡は、茨城県指定史跡に指定されており、中世の常陸国で勢力を誇った 真壁氏の居城 として知られています。
現在、天守や建物は残っていませんが、城を囲んでいた 土塁や空堀などの遺構が良好な状態で残っており、ここが地域支配の重要な拠点であったことを、今もはっきりと感じることができます。
戦国時代の終わりに真壁氏がこの地を去ったあと、江戸時代初めには浅野長政が真壁に入封し、真壁城はしだいに軍事拠点としての役割を終えていきました。
真壁城跡は、中世から近世へと移り変わる真壁の歴史を、足元から実感できる場所 といえるでしょう。
真壁の町並み
真壁の町を歩くと、道が直角に曲がる「鍵の手(かぎのて)」と呼ばれる交差点が今も残っています。


これは、中世の城下町の名残です。
敵が攻め込みにくくするための、防衛の工夫でした。
一方で、江戸時代に入ると、
浅野長政・長重の時代を経て、
商いや生活を重視した 近世的な町割り が加えられていきます。
その結果、真壁は
城下町の名残と、在郷町(ざいごうまち)としてのにぎわいが共存する、
とても珍しい町並みになりました。


今も残る伝統的建造物の数々は、
「人が暮らし、商いを続けてきた町」であることを静かに伝えてくれます。
もっと知りたいなら、真壁伝承館へ(陣屋跡地)
真壁の歴史をもっと深く知りたい方には、
真壁伝承館歴史資料館がおすすめです。
ここは、江戸時代に真壁を治めるための役所、
真壁陣屋があったとされる場所に建てられています。
発掘調査では、
堀や池の跡、そして当時の生活に使われた器などが見つかっており、
「この場所で、人々が行政や暮らしを支えていた」ことが分かります。
浅野氏の時代、
そして笠間藩の時代へと移り変わる中で、
真壁がどのように生き続けてきたのか。
展示を通して、
忠臣蔵につながる歴史の“土台”が、真壁にあったことを
実感できる場所です。
桜川市の山や町の文化を、未来の世代に残したいと思い活動
私は、桜川市の山や町の文化を、未来の世代に残したいと思い活動しています。
地域で人が減ってしまうと、文化を受け継ぐ人や、山のレジャーを支えるお店やサービスも一緒に減ってしまいます
そのため、桜川市に興味や関心を持ってくれる人を増やしていくことが、とても大切だと思っています。



私も地元の仲間と一緒に体験企画を考えたり、魅力を次につなぐ活動をしたりしています。
また、真壁の伝統的建造物群保存地区にある古民家を修復し、町並みの保存活動にも取り組んでいます。
先輩方が大切に育ててきた町内のにぎわいを、これからもつないでいけるように、その古民家を店舗と藍染美術館へ改修しています
みなさんの声をLINEで聞きながら、「もっと楽しめて、もっと住みやすい町づくり案」を形にすることにも取り組んでいます









