【真壁の町並み】はユネスコ世界遺産になれる?「水戸藩の学問・教育遺産群」の構成資産として茨城県初の登録を目指せるか?

桜川市について調べていたとき、ふと湧き上がった想いがあります。
――この町は、茨城県から初めてのユネスコ世界遺産登録を目指せるのではないか?

真壁の町並みは、江戸時代から続く城下町・陣屋町の面影を色濃く残し、100棟を超える登録文化財や重要文化財が現存しています。

平成22年6月29日には、この真壁地区が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。関東地方では4地区目、県内では初となります。

さらに、天然記念物として知られる「桜川のサクラ」や、千年以上の歴史、そして山岳信仰、真壁藍染、祇園祭といった無形文化も息づいています。

茨城県といえば、水戸学を生んだ水戸藩に代表されるように、学問・思想・教育を重んじてきた土地柄。

茨城の歴史と文化を世界に発信する、またとない機会になるのではないでしょうか。

本記事では、「真壁の町並みは世界遺産になりうるのか?」という問いを軸に、文化・歴史・自然・信仰など多角的な視点から、その可能性を探っていきます。

目次

真壁の町並み:歴史と町割りの特徴

真壁の町並み関東の重伝建地区・仲町

茨城県桜川市真壁地区は、平安時代には真壁城の城下町として発展し、江戸時代初期に陣屋町となった歴史を持ちます

現在でも、城跡(国指定史跡)が現地に残っています 。

1602年に真壁氏が現在の秋田県角館へ移封された後、1611年に浅野長重が真壁藩主となり、真壁城は廃城、城下中央に陣屋が設けられました。

この江戸初期に整備された町割り(都市計画)は現在まで大きく変わらず残っており、防衛を意識して設けられた「鍵の手」や「枡形」などの屈折した街路や交差点の形状が、当時の姿をよく伝えています。

敵の侵入や見通しを防ぐための工夫が随所に見られるのが、真壁の歴史的景観の大きな魅力となっているのです。

真壁地区は2010年に国の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)に選定されており、選定範囲約17.6ヘクタールの保存地区内には101棟もの登録文化財建造物が現存しています

真壁の町並み関東の重伝建地区・高上町

これは近世以来の町割りと歴史的建物が良好に旧態を保持していることの証と言えます。

真壁藩は、浅野長重の加増移封に伴い1622年(元和8年)に廃藩となり、その領地は笠間藩に編入されました。

以後、真壁は江戸時代、城主が不在の在郷町(ざいごうまち)として商工業者や職人が集まり、独自に経済的な繁栄を遂げていきました。

特に木綿流通の中継地として関西から東北への物流の要所となり、町のにぎわいは大いに高まりました。

各町(上宿・仲町・下宿・高上町・大和町・新宿町など)には、町年寄が置かれ自治運営がなされ、これら町人地の区画が現在も残ります。

また、明治以降も大きな区画整理や戦災を免れたことで、陣屋町時代の町割りや建築物がそのまま維持されている点が真壁の町並みの大きな特徴です

古くは縄文・弥生時代から真壁は物流の要所でした。

当時の地形を推測からすれば、霞ケ浦へ流入する最大の河川は桜川だったこと。山沿いの畑では、今でも縄文土器や木片が出土すること。桜川沿いに貝塚などの集落や、船着き場跡があること。当時の遺跡は、筑波山周辺から東北にかけて遺跡が多いこと。などから平安時代や江戸時代以前から、交通の要所だったことが推測できます

多様な伝統建築:見世蔵・土蔵・石蔵から洋館まで

真壁の町並みを特徴づけるのが、江戸末期から昭和初期にかけて建てられた多様な伝統建築の存在です。

重厚な土蔵造りの商家建築である見世蔵(みせぐら)や防火壁を備えた漆喰塗りの土蔵が幕末~明治期のものとして多く残り、石造りの石蔵も見られます。

真壁周辺は筑波山系の良質な御影石の産地で、石蔵が造られたと考えられます。

現在も真壁の石材業は有名で、日本の三大石材産地です。

さらに、江戸時代~昭和初期に建てられた町家造りの木造家屋や、当時最新の意匠を取り入れた洋風建築も点在しています

たとえば、真壁町の旧真壁郵便局は大正時代の洋風建築で、現在は町並み案内所として再活用されています

旧高久家住宅や旧木村家住宅といった古民家は市が所有し文化財として保存公開され、歴史的景観の一部となっています

一方、商家町でありながら武家風の薬医門(やくいもん)形式の門構えをもつ屋敷も複数残ります

真壁が武士と商人の文化の交錯する土地であったことを伝えます

このように真壁の街並みは、土蔵造りの商家から和風の門、洋館まで多様性に富んだ景観を形成している点が顕著です

建物群の保存状態も良く、これらの歴史的建造物の多くは登録有形文化財として位置づけられ、地域ぐるみで保全されています。

筑波山・加波山の信仰と江戸時代幕末の歴史

真壁の東側に連なる筑波山系の峰々、いわゆる「筑波連山」は、この地域の自然景観と文化的背景の双方に深く関わっています。

なかでも、筑波山や加波山は信仰・修行・伝説の舞台として、多くの人々の心に根付いてきました。

古代から続く筑波山信仰と、徳川家康の鬼門封じ…そして幕末へ

筑波山は古代から神が宿る霊山として知られ、『常陸国風土記』や『万葉集』にも詠まれるなど、その名は奈良時代以前から記録に残ります。

山頂には筑波山神社(本殿)が鎮座し、男体山・女体山の二峰を御神体とし、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)という夫婦神を祀ることから、古来より山岳信仰の霊場として崇敬を集めてきました。

これにより、筑波山は豊穣や縁結びの神としても広く信仰され、多くの参拝者が訪れる霊峰となっています。

江戸時代まで筑波山は神仏習合の形態で修験道の行場ともなっており、多くの山伏(修験者)が修行した記録があります。

また筑波山は「関東の霊峰」として庶民の信仰登山も盛んに行われました。

江戸時代に入ると、徳川家康は風水思想に基づいて筑波山を「江戸の鬼門を守る霊峰」と定め、幕府の守護山として重視しました。

筑波山神社は徳川幕府の庇護を受け、関東の庶民信仰の対象としてさらに隆盛を極めました。

加波山:天狗伝説と修験の霊場

一方、真壁町に近い加波山(かばさん)もまた知られざる霊山です。

加波山は筑波連山の一部で、古くから修験道の霊場とされてきました

茨城イメージアイキャッチ
茨城イメージアイキャッチ

山中には巨岩・奇岩や岩窟が点在し、尾根沿いには小祠や石碑が残り、現在でも信者による夏季の「加波山禅定(ざんじょう)」と呼ばれる巡礼修行が行われています

筑波山への信仰と加波山への信仰は、関東一円の人々に崇められてきました

江戸時代の国学者・平田篤胤は「岩間山に十三天狗、筑波山に三十六天狗、加波山に四十八天狗が住む」と記しており、加波山は天狗の住む山としても語られています

この伝承は、加波山が山伏たちの修行場であったこと、そして民間信仰でも天狗伝説が語られる霊験あらたかな山であったことを示唆します。

筑波連山の宗教文化資源としての価値

筑波連山には、桜川市内だけでも天引観音、薬王院、駒瀧神社、加波山神社、富谷観音などといった歴史ある宗教施設が複数点在しており、その多くは江戸時代以前に建立された木造建築物で、文化的・建築的価値も高いものです。

なかでも注目すべきは、江戸時代以前の木造仏塔が茨城県内に5基現存する中、そのうち3基が桜川市に集中しているという点です。

1市内に希少な木造仏塔がまとまって現存する例は全国的にも稀であり、地域の宗教的な厚みと、それを守り継いできた住民の保存意識の高さを如実に示しています。

文化財の数はもまた、桜川市は徳川御三家の中心・現在の水戸市に次いで県内2位です。

筑波山・加波山を中心とした筑波連山は、古来より信仰と修行、伝説と歴史の舞台となりが文化的核心地として機能してきました。

そうした価値の集積は、真壁の町並みや周辺の文化資源とも深く結びついており、桜川の名が今後さらに注目されるべき所以とも言えるでしょう。

江戸時代幕末期、筑波山とその周辺は歴史の舞台ともなりました。

元治元年(1864年)、水戸藩の尊王攘夷派志士たちが筑波山で挙兵し、一大勢力を結集させた「天狗党の乱」が起こります。

藤田小四郎ら62名が筑波山に集結して蜂起し、その勢いに賛同する浪士や農民が数日で150人、最盛期には約1,400人に膨れあがりました

筑波山で旗揚げしたことから彼らは「筑波勢」とも呼ばれ、攘夷実行と公武合体に揺れる幕末政局に大きな影響を与えます。

この天狗党の筑波山挙兵では、真壁郡周辺の郷士や農民も動員され、一帯は騒然となりました。

結局、天狗党は諸国を転戦の末に降伏し多くが処刑されました。

その記憶は今も地域に息づいており、筑波山神社の境内には「水戸天狗党顕彰碑」が建立されています。
さらに、県内各地には慰霊碑や伝承が点在し、天狗党の志を今に伝えています。

また、この乱の直前には水戸藩士らによる桜田門外の変(1860年)が決行されており、真壁出身の志士もその思想的な流れに関与しました。

水戸藩の行動や、水戸学が、伊藤博文や高杉晋作など幕末の維新志士を育てた吉田松陰にも影響を与え、明治維新へとつながる思想的基盤を築くことになりました。

真壁は幕末維新期に直接戦場にはなりませんでしたが、水戸藩を中心とした尊王攘夷運動と深い関わりを持ちました。

特に真壁出身の櫻任蔵〔本名:小松崎真金〕は藤田東湖門下の志士で、江戸で書肆を営みながら勤皇活動に尽力した人物です

彼は安政の大獄では追われの身となり諸国を潜行、各地の志士と交流した末、明治維新後にその功績から従四位を追贈されています

坂本龍馬が正四位を追贈されていますが、それに次ぐ従四位ですので、日本の歴史に大きな影響を与えた1人です

現代で言えば、「旭日中綬章」や「総理大臣表彰」くらいですね

櫻任蔵のように真壁から尊皇攘夷の思想に身を投じた人物が出たことは、真壁が水戸学や幕末の志に共鳴する下地を持った土地だったことを物語ります。

このように真壁および周辺地域は、山岳信仰の精神文化と幕末維新の歴史が交錯する舞台でもありました。

筑波山 ― 古来の信仰の山が幕府を護り、やがて幕府を揺るがす舞台に

筑波山は、古代から霊山として崇敬を集め、夫婦神を祀る山として知られています。

豊穣や縁結びの神として親しまれ、筑波山信仰は中世には山岳修験の拠点としても発展していきました。

そんな長い信仰の歴史を持つ筑波山に、新たな意味づけを加えたのが徳川家康です。

江戸に幕府を開いた家康は、風水的に重要な「鬼門」(東北の方角)を意識し、その位置にある筑波山を江戸の守護の山=鬼門封じの霊山とみなし、筑波山神社の保護・庇護を強めていきました。幕府の平穏を祈る象徴として、筑波山は精神的・政治的にも重視されたのです。

その面影は今でも見ることができ、筑波山神社の瓦には徳川家の葵の紋が刻まれています。

—— しかし、やはり“鬼門”だったのでしょうか?

徳川家康が、江戸の鬼門を封じる守りの山として重んじた筑波山。その霊峰は、時を経て、皮肉にも幕府を揺るがす志士たちの拠点となります。

水戸藩から生まれた水戸学は、尊王攘夷の思想を育み、やがて天狗党をはじめとする討幕運動へとつながっていきました。

その旗揚げの地こそが、まさに筑波山の麓。

奇しくも徳川家康が鬼門封じとして重視した筑波山と、徳川御三家の水戸藩が、時を超え、歴史を動かす、幕府を揺るがす尊攘運動の地となったのです。

桜田門外ノ変・忠臣蔵(元禄赤穂事件)と真壁の人々

真壁の歴史的価値を語る上で興味深いのは、全国的に有名な事件への真壁の関わりです。

江戸時代中期の元禄赤穂事件(忠臣蔵)と、幕末の桜田門外の変という二つの出来事に、真壁ゆかりの人物が登場します。

忠臣蔵 赤穂浪士と真壁町ゆかりの人たち

真壁の歴史的価値を語るうえで見逃せないのが、全国的に知られる歴史事件――元禄赤穂事件(いわゆる忠臣蔵)との関わりです。

元禄赤穂事件(忠臣蔵)において、吉良邸への討ち入りを果たした四十七士の中に真壁藩の旧家臣の子孫であったとされる「勝田新左衛門」と「潮田又之丞」が含まれており、これは桜川市の公的資料(デジタルアーカイブ)にも明記されています。

また、赤穂浪士の中で唯一生き延びた寺坂吉右衛門についても、「常陸国真壁郡の出身」との説が唱えられ、討ち入り後に潜居した彼の足取りには諸説あるものの、地域では真壁ゆかりの人物として語られてきました。

ただし、これについては公的な史料による裏付けは現在のところ確認されておらず、地域伝承の範囲にとどまります。

さらに、忠臣蔵の発端となった浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみ・ながのり)は、真壁藩初代藩主であった浅野長政の子孫にあたり真壁浅野家の血脈が赤穂浅野家へとつながっているという歴史的背景も見逃せません。

このように、真壁は忠臣蔵の主人公である浅野内匠頭の出自とも関係があり、主君と家臣の双方で事件と縁がある稀有な土地ともいえるのです。

こうしたつながりは、真壁伝承館でも展示や解説がなされており、地域と全国史との意外な接点として、歴史ファンの関心を集める要素となっています。


桜田門外ノ変(1860年)

桜田門外ノ変(1860年)は、水戸脱藩士17名と薩摩藩士1名が江戸城外桜田門付近で大老・井伊直弼を襲撃し、暗殺した事変として広く知られています。

この襲撃に参加した水戸藩士の中には、桜川市真壁地域にゆかりの人物が含まれていたとする伝承も、地域には残されています。

公的な史料や公式記録においてその人物の真壁との関係を明確に示す記述は現在のところ確認されていませんが、地元ではそのように伝えられています

また、桜任蔵(小松崎真金)は直接襲撃犯ではなかったものの、藤田東湖や武田耕雲斎ら水戸勤皇派と交流し情報面で関与したとされます

その足跡は、桜川市真壁町内にある常永寺の墓所にも刻まれており、後に明治政府より正四位が追贈されたことからも、彼の功績が高く評価されていることが分かります。

茨城県民としては、少し残念ですが、水戸藩は明治維新に向け大きな役割を果たしたと言えますが、新政府の要人には参加しませんでした。

水戸藩は徳川御三家の一角を成していましたが、一方で藩内には天皇を中心とする国家体制を理想とする「水戸学」が成熟し、藩政の基盤となりました 。

この水戸学は、尊王思想のみならず、日本の歴史や国学を重視し、幕末期に活躍した長州藩の吉田松陰やその門下である伊藤博文・高杉晋作、薩摩藩の西郷隆盛など、幕末維新を推進した人物にも大きな思想的影響を与えたと多くの研究が指摘しています。

しかしながら、水戸藩内では、徳川御三家としての立場から幕府を擁護しようとする「諸生党」と、水戸光圀公が創始した水戸学の影響を受けた「尊王攘夷派の天狗党」が激しく対立し、その対立はついに武力衝突へと発展しました。

慶応4年(1868年)11月14日に起きた「弘道館戦争」は、藩士同士が実際に衝突した象徴的事件とされています

水戸藩内では、弘道館(藩校)だけでなく、郊外に設けられた郷校、寺子屋、寺院などで多くの人々が水戸学を学んでいました。

特に地方在住の下級武士や医師、神職らは郷校での教育を通じて、水戸学に基づく尊王攘夷の思想を学び、行動へとつなげていきます。

こうした思想的背景を受けて、元治元年(1864年)藤田小四郎らが天狗党を結成し、筑波山を拠点に挙兵しています。

襷をつなぐように、郊外在住の若者たちが尊王攘夷の思想を「行動」へと移した象徴的事件です

結果的に、水戸藩から明治政府の中心的存在はほとんど輩出されませんでしたが、水戸藩は思想的先導を担い、明治維新という激動の時代に不可欠な役割を果たした藩の一つで、近代日本の形成において見過ごすことのできない重要な位置を占めています。

桜田門外の変と忠臣蔵――この二つの事件に真壁が脇ながら関わりを持つことは、真壁という土地の歴史的深みを象徴しています。

単に町並みが残っているだけでなく、そこに暮らした人々が日本史上の重大事件に参与し、その物語が地域に伝承されている点も文化的価値の一端でしょう。

真壁のひなまつりと真壁祇園祭:受け継がれる祭礼文化

真壁の町並みは建造物だけでなく、地域に根付く伝統行事によってもその価値が高められています。

人々を温かくもてなそうと始めた、真壁のひなまつり

代表的なのが毎年冬から春先にかけ開催される「真壁のひなまつり」です。

真壁のひなまつりは平成15年(2003年)に地元有志が「寒い季節に訪れてくれる人々を温かくもてなそう」と始めた住民主体の町おこし行事です。

当初は数十軒だったひな人形の飾り付けが年々広がり、100軒以上の民家・商店が雛人形を玄関先に飾ります


町全体が雛飾りで彩られる光景は風情があり、この催し目当ての観光客は8万人にものぼります。

展示される雛人形も江戸期の享保雛や明治大正期の雛など貴重なものが含まれ、来訪者に人形の由来や歴史を語り伝える場にもなっています。

住民が自宅に代々伝わる雛人形を公開し、街ぐるみで伝統文化を継承・発信している点は高く評価できます。

400年続く厳格なしきたりの残る、真壁祇園祭

夏には「真壁祇園祭」が行われ、こちらも真壁の伝統を今に伝える重要な祭礼です。

真壁祇園祭。迫力ある仲町の山車リフト回転

真壁祇園祭は旧真壁町山尾に鎮座する五所駒瀧神社の例祭で、約400年前の江戸初期に京都祇園祭を範として始まったと伝えられる古い祭りです

7月23日から26日にかけて行われ、豪華に飾られた山車(だし)が真壁の町を練り巡り、神輿も繰り出されます。

特徴的なのは世話人制度と呼ばれる祭礼運営組織で、氏子地域の各町から選ばれた世話人・中老・大老といった役職者が、代々厳格なしきたりのもと祭りを取り仕切ります

装束(黒羽織・白足袋・カンカン帽など)にも厳格なしきたりが守られています

真壁祇園祭。神輿が御仮屋へ



この古式ゆかしい祭礼文化は国からも評価され、昭和61年(1986年)に「国の記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」(選択無形民俗文化財)に選択されています

真壁祇園祭は現在も地域総出で継承されており、歴史的町並みを背景にした山車巡行は大変絵になる光景です。

将来的には、ユネスコ無形文化遺産の追加登録候補として名前が挙がる可能性もあるのではないでしょうか?

ひなまつりと祇園祭という有形・無形の伝統が息づく点は、真壁の町並みの価値を一層高める要素となっています

千年の桜川のサクラと、千三百年の真壁藍染め:自然と伝統産業の宝

真壁地区周辺には、建築・祭礼以外にも地域の文化価値を語る上で欠かせない自然・伝統資源があります。

千年の山桜が咲く桜川

その一つが「桜川のサクラ」です。

桜川市の市名の由来にもなった桜川は、古来より関東随一の桜の名所として知られています。

平安時代には歌人の紀貫之がこの地の桜を和歌に詠み「西の吉野、東の桜川」と称されるほどその美しさは都にも伝えられていました

室町時代には世阿弥が、桜川にまつわる物語を能『桜川』に仕立てました

江戸時代には水戸藩主徳川光圀が、実際に現在の桜川市へ観桜に訪れ、感銘を受けて水戸の偕楽園そばや、江戸の飛鳥山など各地に桜川の桜を移植した逸話も残ります。

偕楽園の裏を流れる小川に苗木を数百本移植し、川も桜川市の桜川に見立て「桜川」と名付けたと伝えられています

徳川光圀は、上記した水戸学の基礎を作った人物で、水戸黄門で知られています


こうした歴史を持つ桜川のヤマザクラ自生地は、1924年に国の名勝に指定され、1974年には「桜川のサクラ」として国の天然記念物にも指定されました

桜花と文学・伝説が結びついたこの風致景観は、桜川地域の誇る自然遺産であり、世界遺産の観点でも文化的景観や生物多様性との関連で注目しうる資源です。

真壁町に伝わる千三百年の藍染文化

真壁は藍染めの伝統でも知られます。

桜川市真壁町には1300年もの歴史を持つとされる藍染文化が伝わっており、日本古来の「天然藍灰汁発酵建て」という技法が密かに守られてきました

明治以降、安価なインド藍や化学染料の普及で一時廃れましたが、2004年に地元有志が真壁藍保存会を結成し、この伝統技術の復興に取り組んでいます

保存会では化学染料を一切使わず藍を建て、藍染め体験の機会を提供するなど、古来から続く藍の色を現代に伝えています

藍染めは江戸時代、水戸藩では特に奨励された地場産業であり、真壁でも染料作物の栽培や織物産業と関わりが深かったと考えられます。

水戸藩は、藍染めを藩の文化・経済の柱とする意識が高く、水戸黒などの独自の技術を開発するなど特に力を入れて発展させた地域と言えるでしょう。

このように自然景観(桜)と伝統産業(藍染)が地域文化に根差している点も、真壁を語る上で重要です。

特に藍染めは日本の無形文化遺産的要素でもあり、町並みと融合した暮らしの文化として発信することで、世界遺産としての価値訴求に厚みを持たせることができるでしょう。

「石の町・真壁」伝統が刻む匠の風景。西洋建築を支えた真壁石

真壁は、全国でも有数の良質な御影石(花崗岩)の産地として知られ、日本三大石材産地です。

筑波連山のふもとに広がる山々では、古くから石材の採掘と加工が行われてきました。

その歴史は奈良・平安時代までさかのぼるとされ、石造文化を支えてきました。

石材加工の技術は代々職人に受け継がれ、高度な彫刻技術や構造加工技術は全国でも高く評価されています。

真壁石燈籠が1995年に伝統工芸品に認定され、現代においても、真壁の石匠の中には「伝統工芸士」に認定された職人もおり、石造文化の担い手として活動を続けています。

東日本大震災で真壁も甚大な被害を受ける中、伝統工芸士が作った真壁石燈籠は、1つも倒れることはありませんでした

地域の山中や寺社には、こうした石工たちが手がけた石仏・石碑・鳥居・燈籠などが数多く点在しており、筑波連山の自然風景と一体となって独特の文化景観を形成しています。

特に真壁周辺では、信仰・祈り・生活に根差した石造物が、町並みの一部として息づいており、訪れる人に時を超えた静かな感動を与えてくれます。

また、明治以降になると、西洋建築の普及とともに石材による洋風建築資材の需要が高まり、真壁の石工たちは東京や横浜など都市部の建築や記念碑の制作にも携わりました。

国会議事堂、日本銀行、迎賓館、日本橋などは一例です

真壁の石材業の技術と信頼は、現代に至るまで多くの建築分野で受け継がれています。

石材もまた2024年(令和6年)に、筑波山地域ジオパークの地質遺産「筑波山塊の花崗岩」が、国際地質科学連合(IUGS)の『ヘリテージストーン』に認定されました。

これは、世界で選ばれた55種の天然石材遺産の一つであり、日本だけでなく東アジアで初めての認定、そして日本で唯一の認定です。

この認定を受けた石材は、産地名にちなんで「真壁石」と呼ばれています。

このように、石材という自然素材と、職人技という人の営みが融合した文化的景観は、真壁のもう一つの大きな誇りです。

真壁町の文化を伝え、楽しみ、未来につなぐ、世代のバトン

守り継ぐ心が残した風景――戦災と震災を超えた真壁の町並み

真壁の町並みが今も良好に残されている背景には、戦災を免れたという歴史的経緯があります。

第二次世界大戦(太平洋戦争)を乗り越えて

太平洋戦争末期、茨城県内の各地が空襲で甚大な被害を受ける中、真壁町は被災を免れました。

そのため、江戸から明治・大正期にかけて築かれた建築や町割りが焼失せず、往時の姿をとどめる貴重な町並みが現在も受け継がれています。

徳川御三家があった茨城なのに、歴史的建造物の観光名所が限られているのは、空襲や艦砲射撃で焼失したことが主な要因なんですね

戦争を水戸や日立、そして真壁で体験した人たちの話を、直接聞かせて頂ける経験があり、今でも心に残っています

事実上の水戸城・天守閣にあたる御三階櫓(ごさんかいやぐら)も水戸空襲で焼失してしまいました。ちなみに、関東に天守閣の城が少ないのは、江戸時代に江戸幕府(江戸城)へ配慮したための様です。

真壁町に話を戻しますが、真壁は戦後の高度経済成長期にも、大規模開発の対象とならなかったことが、結果的に歴史的景観の保全につながりました。

東日本大震災からの再建と、住民の保存意識

近年では、東日本大震災により真壁の歴史的建造物群は甚大な被害を受けました。

震災当時、真壁町内の古い建物の約9割がなんらかの被害を被り、特に築年数の長い建物の7割が倒壊・半壊。

土蔵が完全崩壊した例や母屋が傾いた例もありましたが、地元住民は「古い景観を残したい」との強い思いから復旧に立ち上がります。

耐震補強など新技術も取り入れつつ、可能な限り震災前の姿に戻す努力が重ねられました。

文化庁や専門家の指導のもと伝統工法による修理も進められ、2025年現在でも一部未復旧の建物はあるものの、大部分が見事に修復されています。

この震災復興のプロセスは、単に建物を直しただけでなく、地域住民が改めて町並みの価値を認識し次世代に繋ごうとする意識の醸成にもつながりました。

戦禍を逃れ、震災を乗り越えた真壁の町並みは、いわば奇跡的に保存されたタイムカプセルとも称えられます。

こうした経緯そのものも一種の物語性を持っており、世界遺産のアピールの際には「守り伝えてきた住民の情熱」として紹介できるでしょう。

実際、真壁では1993年に住民主体の保存会「ディスカバー真壁」が発足し、町並みガイドや伝統行事の復活など地道な活動を継続してきました。

真壁は、景観を守る保存会、真壁藍染めを守る保存会、祇園祭の実行委員、ひなまつりの運営、そして後述するTHE DAYの若い人たちの取り組みなど、いろんな人が歴史や文化を守ろうとしていますね

震災後はそのメンバーが中心となって復興に奔走し、国から表彰されるまでになっています。

このように、真壁の町並み保存は行政任せではなく地域ぐるみの取組みである点も特筆に値します。

戦災を免れた幸運と、災害からの復興という逆境を乗り越えた経験——両方を兼ね備えた真壁は、文化遺産の保全とコミュニティの強さを示す好例として国内外に発信できるでしょう。

真壁の文化を伝え楽しみ、未来へつなぐ。世代を超えたバトンリレー

真壁の町並みや祭り、伝統産業が今日まで色濃く残っている背景には、それを守り、受け継いできた多くの人々の存在があります。

町の歴史や文化は、ただ残されているだけでなく、「今を生きる人たち」がそれを感じ、楽しみ、未来へつなごうとしています。

全国的に有名になったことを例えると「真壁のひなまつり」です。

そして、若い次の世代も真壁の文化を伝え楽しむ、世代を超えたバトンリレーがなされています。

その活動のひとつが、真壁で地域文化の魅力を発信し続けている「The Day」という団体の取り組みです。

彼らは、真壁の町に息づく風景やものづくり、人とのつながりを大切にしながら、音楽やアート、マーケットイベントなどを通して、町の魅力を表現しています。

たとえば、「まかべ横丁」や「まかべ朝市」などの催しは、地元の人々が顔を合わせ、手づくりの品や旬の野菜、焼き菓子や雑貨が並ぶ、あたたかな交流の場。

そこには観光では味わえない、「暮らしの延長にある真壁の文化」が息づいています。

これらの活動は、かつての真壁を知るご年配世代が築き守ってきた土台の上に、若い世代が新しい風を吹き込み、次の時代へバトンをつなごうとする姿そのものです。

文化を未来へつなぐには、支援に頼るだけでなく、古き良きものを活かして経済を動かすことが大切ですね。

かつて石を刻み、藍を染め、町を形づくった人々がいたように、今はイベントを企画し、物語を紡ぐことで、真壁の未来を築こうとする人たちがいます。

真壁という町は、過去と現在が断絶なくつながっている場所。

それぞれの世代が自分なりのかたちで、文化と暮らしの“たすき”をつないでいるのです。

世界遺産登録への課題と展望

真壁の町並みとその周辺文化資産は歴史的・文化的価値の宝庫と言えます。

しかしユネスコ世界遺産に登録されるためには、それらが単に優れているだけでなく「顕著な普遍的価値(Outstanding Universal Value)」を持つことを国際的に認められなければなりません

課題1:重伝建制度以上の世界遺産級な保全措置


世界遺産委員会の定める登録基準によれば、資産は人類にとって普遍的に見ても傑出した価値を示すものであり、かつ真正性(オリジナルの状態が保たれていること)と、完全性(価値を示す要素が完全に揃っていること)の条件も満たす必要があります

さらにその価値を保護するための法的保護や管理計画、緩衝地帯の設定など確実な保全措置が講じられていることも求められます

真壁の場合、重伝建制度による法的保護と自治体の保存計画が既に整備されていますが、世界遺産級となるとより一層踏み込んだ管理と監視体制、広域的な景観保全(バッファゾーン設定等)も課題となるでしょう。

真壁の町並みがもし世界遺産を目指すなら、「日本における江戸時代~近代初頭の在郷町集落の典型例であり、都市化の波に抗して伝統的景観を維持してきた希少なケース」であるといったストーリーで基準を主張をするのはどうでしょうか。

また、真壁に見られる城下町(陣屋町)由来の計画都市としての構成(町割りの街路と機能分化)、蔵造り建築群や和洋折衷の建築史は、人類の都市計画や建築の発展を物語る一段階の証拠として、世界遺産の基準に該当すると考えられます。

そこには、まるで日本の歴史を一つの町に凝縮したかのような、貴重な縮図が息づいているのです。

課題2:国際的に見て突出した価値の証明

もっとも、世界には各国に様々な歴史都市・集落が存在し、それぞれ固有の価値を主張しています。

真壁が国際的に見て突出した価値を証明するには、しっかりとした比較研究と位置づけが必要です。

日本国内で言えば、既に世界遺産となっている白川郷・五箇山の合掌集落(伝統的農村集落)や、京都・奈良のような歴史都市との対比で、真壁のユニークさを示すことになります。

真壁は都市規模こそ小さいものの、「武家地を持たない在郷商人の町」でありながら城下町同様の整然とした計画性を持ち、さらに近世以降の変化を柔軟に受け入れてきた点で他にはない特徴があります。

たとえばヨーロッパの歴史都市との比較では、城壁で守られた中世都市に相当するのが城下町ですが、真壁は城を失っても町人の自治で町を存続させた点が興味深いです。

また中国の平遥古城のような金融業で栄えた商人都市とも異なり、小規模ながら多角的経済(酒造、醸造、織物、石材など)で成り立った町と評価できます。

こうした観点で諸外国の類似資産と比較し、「真壁でしか見られない普遍性とは何か」を突き詰めることが重要でしょう。

課題3:情報発信と世論形成

世界遺産登録には国内的な支持も必要なため、まず真壁の価値を全国の人々に知ってもらう努力が欠かせません。

既にひなまつりなどで集客には成功していますが、学術的な視点でのPRはこれからです。

幸い、近年はSNS等で「真壁の町並み」「重伝建」などと発信する個人も増えており、ニュースで紹介されることや、ロケ地に選ばれるなどメディア露出も高まっています。

茨城はこんなにも魅力のある土地なのに、魅力度が最下位になってしまうなど、あまりアピールが得意ではなさそうでしたからね

行政と民間が連携し、観光客だけでなく歴史研究者や文化財専門家にも真壁のデータを提供して議論してもらう場を設けるといいのかもしれません。

その中で世界遺産への提言や課題整理がなされていけば、機運も高まるはずです。

真壁が世界遺産になるための提案


顕著な価値の明確化:真壁の町並みが「日本近世の城下町文化と庶民の暮らしが融合した、きわめて稀な例」であることを、国内外の専門家に伝え、顕著な普遍的価値(OUV)として的確に言語化していくことが求められます。

シリアルノミネーション戦略: 単独での登録が難しい場合、すでに文化庁の世界遺産暫定一覧表候補の文化資産に記載がある、水戸藩の学問・教育遺産群と連携し、「水戸藩の学問・教育遺産群と、江戸時代の関連遺産群」といったテーマで一括登録を目指すこと。

保護体制の強化: 重伝建制度で保護されているとはいえ、世界遺産級の保全には景観規制の拡大や緩衝地帯設定、継続的なモニタリングが求められる。行政が専門部署を設置し、住民と協働で管理計画を充実させる。

持続可能な観光と地域振興: 世界遺産となれば観光客が増加する可能性があるため、真壁らしい静かな景観を損なわずに受入れを可能とする観光マネジメントを準備する。町並み案内や文化体験(藍染め体験等
)の質を高め、経済効果と保全意識向上を両立させる。


国際発信: 英語など多言語で真壁の歴史価値を紹介する資料やウェブサイトを整備し、海外の遺産関係者にも情報提供する。国内開催の国際会議等でプレゼンテーションを行い、専門家ネットワークを広げる。

これらを着実に進めていけば、真壁の世界遺産登録は決して夢物語ではありません。

世界遺産暫定一覧表候補[水戸藩の学問・教育遺産]と連携の可能性

茨城県内では現在、世界遺産登録を目指している資産として「近世日本の教育遺産群(The Educational Heritage of Early Modern Japan)」というテーマが挙げられています。

これは、日本全国(茨城、栃木、岡山、大分など)の藩校・郷学・私塾や庭園・町並みをまとめた教育史に関わる資産群です

そのコアの資産群が「水戸藩の学問・教育遺産群」です。たとえば弘道館、偕楽園、彰考館、日新塾、大日本史編纂所など、水戸藩にゆかりある教育系の史跡が含まれています

水戸市の弘道館や偕楽園といった徳川御三家・水戸藩ゆかりの教育遺産群を対象としたもので、平成22年には文化庁の調査・審議で世界遺産暫定一覧表記載資産候補にも取り上げられました

近世水戸藩が推進した学問・教育政策による諸要素(藩校・書物・庭園など)の価値は高いと評価されています

しかし「近世の教育資産」はまだ正式に暫定一覧表への記載には至っておらず、顕著な普遍的価値(OUV)の検証や構成資産の検討が続けられています

水戸市は弘道館・偕楽園を軸に引き続き世界遺産登録を目指す構えで、その成果は報告書にもまとめられています

では、この水戸藩の教育遺産群真壁の町並みが連携できる可能性はあるでしょうか。

テーマとしては一見異なるようですが、茨城県初の世界遺産を実現するには県内資産同士の協調も視野に入ります

水戸藩の遺産群が目指すのは江戸時代の藩校・教育文化の顕彰ですが、真壁の町並みは同じく江戸期に形成された在郷町の暮らしと伝統を伝えます。

両者を包括する上位概念として「近世水戸藩の文化的景観」あるいは「徳川時代の地方統治と住民生活」などといったテーマを設定し、シリアルノミネーション(一連の関連資産としての世界遺産登録)を検討することも考えられます。

具体的には、水戸藩の教育遺産群(弘道館、彰考館〔大日本史編集施設〕、偕楽園など)に、真壁の町並みや常陸国府跡・笠間城下町など茨城県内の他の江戸期遺産を加えることで、より包括的に「江戸時代の地方行政と文化」の価値をアピールする戦略です。

真壁は浅野氏・松平氏・笠間藩と統治者が変遷しつつも地域住民が自治的に町を維持した歴史を持ちます。

その町並みには武家文化・商人文化・庶民信仰が融合した独自の生活文化が刻まれており、これは水戸徳川家の藩校文化とは異なる切り口で近世日本を物語るものです。

両者を組み合わせることで、「近世日本の多様な地方文化」という広がりを持たせ、世界遺産委員会にも訴求しやすい普遍的価値を創出できる可能性があります。

もっとも、世界遺産の暫定リスト入りや推薦には国主導の調整が必要であり、一地域の思いだけでは進みません。

まずは真壁自身の価値を国内外に十分周知し、水戸など県内他地域との連携構築を図ることが重要でしょう。

幸い、茨城県はこれまで世界遺産登録例がなく、「県初の世界遺産」を期待する機運があります。

行政関係者や専門家が横断的な協議体を作り、県内資産のシリアル戦略を練ることが期待されます。

真壁が水戸藩教育遺産群と共同歩調を取ることで、単独では及ばない顕著な普遍性を補完し合う道も開けるかもしれません。

茨城県初の世界遺産誕生へ向け、まずは真壁の持つ文化・歴史的価値を最大限に整理し、学術的視点も交えつつ発信していくことが肝要です。

真壁の町並みとそこで営まれてきた暮らし・伝統行事には、地域の枠を超えて人々の心を打つ普遍的なストーリーが潜んでいます。

それを丹念に掘り起こし、国内外に共感の輪を広げていくことが、世界遺産への道を切り開く鍵となるでしょう。

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